関西・歌舞伎を愛する会とは

昭和53年に「関西で歌舞伎を育てる会」を結成。
平成4年に名称を「関西・歌舞伎を愛する会」に変更しました。
みんなが力を合わせて、関西で歌舞伎をもっと盛んにし、次代に伝えて行こうという、ボランティア団体です。
昭和54年5月に、朝日座で、結成第1回公演を開催。
以降、毎年7月に公演を実施。
55年ぶりに復活した「船乗り込み」は、初夏の浪速の風物詩として定着しました。

▶︎「関西で歌舞伎を育てる会」を結成
行政、経済界、労働界、学者文化人、市民などが幅広く結集し、ユニークなボランティア活動を展開◀︎

昭和53年(1978年)12月20日に、「関西で歌舞伎を育てる会」を結成しました。
当時の関西における歌舞伎公演の状況は、たいへん厳しいものがありました。
そのような時、歌舞伎復興に情熱を燃やす、澤村藤十郎さんとの出会いがあり、歌舞伎復興への強い思いに多くの方が共鳴しました。
「いま何か手をうたなければ、歌舞伎発祥の地、関西で公演が見られなくなってしまう…。まだ一度も歌舞伎を見たことがない若い世代の方にも、歌舞伎の素晴らしさを知ってもらおう!」大阪の民間労働組合(高畑敬一/大阪民労協代表幹事)の呼びかけによって、行政、経済界、労働界、学者文化人、市民の多くの方々が結集し、「関西で歌舞伎を育てる会」が結成されました。

左より、大島靖(大阪市長)、小松左京(作家)、高畑敬一(大阪民労協代表幹事)、澤村藤十郎、中村勘三郎(十七代目)、永山武臣(松竹副社長)、永田義男(大阪民労協代表幹事)の各氏。

▶︎ 朝日座で結成、第1回公演
   若い歌舞伎ファンを拡大し、公演は大成功を収める ◀︎

昭和54年5月、今は無くなった朝日座で第1回公演が開催されました。初めての方にも歌舞伎の楽しさを知ってもらおう・・・という考えで、お客さんが 舞台にのぼり馬に乗るなどした、斬新な「歌舞伎の見方」が評判になりました。中村勘三郎(十七代目)さん、中村富十郎さん、澤村藤十郎さん、中村勘九郎さん、坂東八十助さんなどによる熱気あふれる舞台は、多くの若い歌舞伎ファン を生み出しました。
そして、平成4年には、会の名称を「関西・歌舞伎を愛する会」と改め、今日に至っています。

朝日座での結成第1回公演のチラシ。初めて舞台にお客さんがのぼり大評判を呼んだ「馬乗り」。澤村藤十郎さんのわかりやすい解説「歌舞伎の見方」も大好評。

▶︎ 55年ぶりに復活した「船乗り込み」
  今では浪速の初夏の風物詩として定着 ◀︎

江戸や京都の役者が大阪で芝居をするとき、船に乗って川筋をめぐりながら、沿道の歌舞伎ファンにご挨拶し、道頓堀の芝居小屋へ乗り込んだ行事です。 昭和54年5月、朝日座で「関西で歌舞伎を育てる会 第1回公演」の前に、55年ぶりに「船乗り込み」が行われました。
色とりどりの幟や高張提灯(たかはりちょうちん)に飾られた船に、俳優や関係者が乗り込み、賑やかな鐘と太鼓のお囃子を流して、川沿い川筋のファンに口上を述べながら戎橋に着き、朝日座までお練りをしました。沿道は鈴なりの市民が歓迎し、今では浪速の初夏の風物詩として、すっかり定着しました。

55年ぶりに復活した古式ゆかしい「船乗り込み」 中村勘三郎、澤村藤十郎、中村勘九郎、岸昌・大阪府知事、大島靖・大阪市長、小松左京・作家、高畑敬一・大阪民労協代表幹事の各氏、関係者などが乗り込み賑やかに行われました。都市における川や水の大切さを再認識するきっかけともなりました。

▶︎ 初めての自主公演「夏祭浪花鑑」
   黒門市場の若衆も、舞台で一緒に神輿を担ぎ大成功に終わる ◀︎

昭和61年8月に、国立文楽劇場において、初めての自主公演を開催しました。中座の改修工事により、育てる会の公演ができなくなったため、「夏祭浪花鑑」の自主公演を開催する事となりました。
故、十三世片岡仁左衛門さんは「関西で歌舞伎を育てる会が、夏祭浪花鑑の自主公演を決断されたことは、大変ありがたいことです。しっかりと上方の型を残したい・・」と述べられました。お神輿を担ぐ若衆に、黒門市場の若者が舞台にのぼり出演するなど、公演は大きな話題を呼び大成功に終わりました。

自主公演『夏祭浪花鑑』の公演チラシ

高津神社のお神輿を担いで、公演を盛り上げる劇場前での式典

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